膝の上から床に文庫本が滑り落ちて、私は目を覚ました。
私はバスに乗っていた。
窓の外はもうすっかり暗くなっており、わずかな残照が遠くの山の輪郭をかすかに浮き上がらせていた。
床に落ちた文庫本を拾い上げ、外れかけた書店の文庫カバーを整え再び膝の上に乗せた。
バスの中の乗客は数える程しかいない。青白い蛍光灯の中に浮かぶ後ろ姿はどれも物憂げで疲労感ばかりが感じられた。
最後部の座席の中央に座っていた私はバスの規則的な振動に身を任せながら、ぼんやりと乗客の背中の一つ一つを見て回った。
右手の前から三番目の席に座っている少女は、多分中学生だ。濃紺の制服を着たその少女の髪は今どきは余り見かけないような三つ編みだ。うつむいているせいでうなじの白さばかりが目につく。何か気に病むことでもあるのだろうかうつむいたまま微動だにしない。
左の乗降扉のすぐ後ろの座席の老婆はおそらく痴呆症もしくはある種の神経症をわずらっているのだろう、低くか細い声で目に見えぬ誰かに向けて一心に話しかけていた。時折何かに安心したかのように何度もうなづきながら微笑を浮かべているようだ。後ろからなのでよくはわからないが、おそらく老婆の目の前にいるであろう人は親しい人に違いない。
その老婆のすぐ後ろの二人がけの座席には、黒いコートを着た若い男が腕組みをして寝ていた。多分何か皮膚炎でも煩ったのだろう、首から耳の下にかけて鬱血のような赤黒い線が襟元に覗いている。
「…次は六号線、次は六号線、…谷田皮膚泌尿器科を御利用の方はこちらで降りられると便利です…」
すっかり古くなってうねったテープのアナウンスが流れた。
誰もボタンを押さず、停留所に誰もいなかったためバスは速度を落とすこともなく停留所を通過した。
窓の外には殆ど闇に塗りつぶされてしまいそうな薄暮の中に枯れ草の倒れた原野が広がっている。おそらく霧が出始めたのだろう、後ろに流れ去る街路灯や道路工事の赤い表示灯がぼんやりと闇ににじんでいる。
「…ごめんなさいねえ…何もしてあげられなくて…ごめんなさいねえ……」
突然老婆の声の調子が高くなり、その声は哀れな嗚咽に変った。
私はすっかり気が滅入り、読むわけでもないが膝の上の文庫本を開いた。活字の列は像を結ばず、わたしは小さなぼんやりとした点の集合を見ていた。
どのくらいそうしていたろう、不意に老婆の声がしなくなった事に気がついて顔を上げると老婆の姿は無かった。
いつ、降りたのだろう?
果たしてこのバスは止まったのだろうか…
おそらく、私は瞬間的に眠ってしまったのだろう。その間にバスが停車し老婆は降りたに違いない。私は自分の最も合理的な解釈に満足して自分に噛んで含めるように何度もうなづいた。おそらく私は疲れているんだ…
テープの停留所の案内が流れても誰もボタンを押さず、無人の停留所をバスは速度を上げて通過した。
街路灯の白いぼんやりとした光が幾つも後ろに流れていく。
私は止まる気配の無いバスにだんだんと不安になってきた。
……そればかりではない。
そもそも、私はどこの停留所で降りるのだったろう?
黒雲のような不安が一気に膨らみ、全身に冷たい汗がにじんだ。
落ち着いて考えればわかる…落ち着いて考えればわかる…私は自分に何度も言い聞かせたが、ため息をついても深呼吸しても、自分がどこの停留所で降りればいいのかがわからなかった。このバスがどこに行こうとしているかさえも…
思考するのに疲れ私はバスの天井を見上げた。
消費者金融の小さな広告板の中で微笑む少女の顔を見ながら、私は多分病気なのだろうとなかば確信した。
何も思い出せない。
いつもどこで降りていたのか。
このバスでどこに行こうとしているのか。
どこから来たのか。
どこに帰るのか。
何も思い出せない。
だが、自分がこんな状態にあることを誰かに知られたら大事になり、警察かある種の病院の保護を受けなければならないことは明らかだ。自分が誰かは良くわからないが、おそらくは社会的な信用を失うに違いない。
それに、症状が一過性ということもある。確か高校生の頃、バスケットボールの試合中に倒れた友人が記憶を失った時も数日で回復したはすだ。逆行性健忘症…確かそんな病名だったような気がする。
…あせらず、記憶が回復するのを待てばいいんだ…
私は何度もうなづき、それから内ポケットの中の財布の中味を確認した。安い旅館で二泊ぐらいはできそうだ。何か自分を知る手がかりは無いかと財布の中を吟味したが、名前や電話番号を示すようなものは何も無かった。
多少の持ち合わせが有ることに安堵した私は、再び窓の外を見た。
闇の中に一つの光さえも探し出すことが難しいほどに、バスは人里離れた所を走っているようだった。その闇の中には蕭々とした風が吹いているようで、漆黒の闇の中に木々の葉や枯れ草のざわめく影が見てとれた。
もう、バスの中には私と運転手以外誰もいなかった。
中学生の少女も、黒いコートの男もいなかった。
バスがいつ止まり、誰がいつ降りたのかを私は考えないようにした。
目の前で起きている現象だけが私にとっての事実だった。私はそのことを積極的に受け入れようとした。
「…次は、終点、美原水源地入り口、美原水源地入り口、お降りの方はお忘れ物に注意して下さい…次は、終点美原水源地入り口…」
バスはエンジン音を一際大きく唸らせながら転回場で大きくUターンして止まった。
エンジンが止まり室内蛍光灯も一斉に消えて、車内は闇と静寂に包まれた。
運転手の席の真上の小さな蛍光灯だけが明るく輝いている。
運転手は首を二、三回左右に捻った後、煙草を取りだし火を点けた。
運転手はきっと私が乗っていることに気がついていないに違いない。
私は大きく咳払いした。
だが、それでも運転手は気がつかないようだった。
私は座席から立ち上がり、通路を歩いて運転手の脇に立った。
「…あのう…すみません…」
運転手は顔を上げ、初めて私の顔を見た。
運転手の目は大きく見開かれ、口が半開きになった。
その顔を見ているうちに私はだんだんと怖くなり、ぞっとするのを堪えながら運転手に尋ねた。
「…このバスは折り返しで…街に戻りますよね?…」
運転手の喉が唾を呑み込むのが見てとれた。運転手の顔が真っ青に見えるのは蛍光灯の光の色のせいばかりではないようだった。
「…お客さん…このバスは街には戻らないんです…」
「…困ったな…街に戻りたいんだ…街はどっちだろう?」
私が尋ねると、運転手は後ろの方を指さした。
指し示す方向が良くわからなかったので、バスを降りて眺め渡していると、突然バスのエンジンがかかり、もの凄い勢いで発進して闇の中に消え去って行った。
運転手の指し示した方向には、『美原水源地入り口』と書かれた木の看板と、山の奥に向かう細い遊歩道の入り口が見えた。
その道は、とても街に続いているとは思えなかった。
だが、私はこの道があらかじめ決められていたような気がして、闇の奥に向かって歩き始めていた。